小中一貫校「志明館」 志でつくる学校プロジェクト
発起人対談
其之弐

モデルは江戸の学び舎!? 志明館の教育方針とは

従来の制度化された教育の限界を打ち破る、徹底された志明館教育の内容とは。
当プロジェクトの幹事会代表3名にその真価を聞きます。

左から、山口秀範さん、橋田紘一さん、八尋太郎さん

志明館教育は寺子屋や藩校などの、江戸時代の学び舎をモデルにしています。昔ながらの教育を参考にすることは、現代に欠けているものを埋めることにつながります。対談の2回目は、志明館が目指す教育方針や、独自の指導スタイルについて、幹事会代表の皆さんにお聞きします。

尊敬する先生が「スゴい」と言うから「スゴい」んだ!
この気持ちが教育の真髄

ーー志明館がモデルとしている試みはありますか?

私が志明館を思い立ったモデルは、青年時代の思い出にあります。高校生のころ、恩師小柳陽太郎先生のお宅で、同級生30人ぐらいと古典を読む集いに参加していたんです。平日の夕方、授業やクラブ活動が終わった後に、三々五々集まって、2時間ぐらいでしょうか。先生がガリ版刷りのペーパーを準備して下さり、吉田松陰や山鹿素行の文章、あるいは「古事記」や「十七条憲法」を読みながら、先生のご講義を聴く会でした。半年ほど、夢中になって毎週通い続けました。
何がすごいかと言うと、小柳陽太郎(※1)という一人の先生の“魂”が躍動している。そこに居るだけで、みんなが「ワーッ」と熱くなってくる。「うわー、すごいなー」と感嘆する。古典の中身は難しくて分からなくても、尊敬する先生が「すごい」と言うから皆んな「すごい」と感じるという(笑)帰りは吉田松陰になったような気持ちで、夜道を歩きながら天下国家を論じながら帰宅したものです…… まだ高校生だったけどね。いま考えれば、その「すごい」と共鳴する気持ちこそ、教育の真髄だったように思います。
※1:小柳陽太郎(こやなぎようたろう、1923-2015):1950年から福岡県立修猷館高等学校国語教諭、九州造形短期大学教授を歴任。日本の古典を輪読して、青年たちを育成する活動を生涯続けた。

ぼくは小柳先生の教育を直接受けたわけではないけど、ずっと話は聞いていた。彼らが薫陶を受けていたこともね。吉田松陰という人は、自ら教えるよりも、皆んなに議論させ、その様子を聞いて、道筋をつけていたのではないかな。小柳先生もそういうやり方でやっていた。
一方、うちの親父も教育大学附属小学校の校長だったので、学校の先生を目指す教育実習生がよく家に来た。毎度たくさん来てね、その当時来た先生たちのなかの6、7人は親父が死ぬまでずっと通ってきたな。やっぱりそういう師弟関係が昔はちゃんとあったんやね。その親父の師が、玖村敏雄(※2)先生で、吉田松陰の有名な研究家だった。それで、あの頃は吉田松陰の古い本がずらーっと家にあった。まだ子供だったので、僕には猫に小判だったけど。
※2:玖村敏雄(くむらとしお、1896-1968):教育学者で文部官僚。吉田松陰研究の戦後の第一人者として知られる。『吉田松陰全集』(岩波書店)の編纂に主力的に関わる。

幕末の対外的な危機も松下村塾がなかったら危うかったですよね。私塾が優秀なリーダーを輩出したおかげで事なきを得た。あの狭い部屋で1年半ぐらいしか活動していないのに、当時の日本のリーダーをあれだけ輩出しているんだから驚きです。

左:吉田松陰像(出典:societas.blog.jp) 右:松下村塾外観

人を作るのが寺子屋教育、知識を詰め込むのが現代教育

ーーいま現在の教育と、藩校や寺子屋教育の違いは?

かつての寺子屋教育では、人を作ろうとしていました。いまの教育は知識だけを詰め込もうとしている。この違いは大きいです。たとえば藩校にはテストがあったわけでもなく、人財を育成するために何をしたらいいかを、各藩で考えてやっていた。いまでは人財を作る意識よりも、いい中学、いい高校、いい大学に行かせようという志向が強く、ひたすら知識を教えるだけで、道徳教育も欠けていますね。

私塾や藩校が現在の学校教育と根本的に違うのは、指導者に惹かれて人が集まったことだね。生徒はその先生が塾長だからこそ通いました。いまの学校とは全く違う。自分たちで決めて「この先生に何を学びたいか」が生徒側にあり、先生にも「自分はこれを教えるんだ」という確固たるものがあった。志明館の教育もそれに近づけていきたいね。

全国各地の親子が自らうちに来たいと思って集まってくる場所にしたいですよね。

公立の義務教育機関というのはがんじがらめです。どこもかしこも。文科省、教育委員会という行政の監視のもと、先生たちが親にも気を遣い、マスコミの目も気にしながら…… そんななかで、本当に子供たちのための教育がなされているか全くもって疑問です。公教育を批判するつもりはないが、それを打ち破りたいというのがぼくの思いです。とにかく、しがらみがない状況で何事に関しても徹底的にやれる学校にしたい。
エリートを育成する上で、もっとも基本となるのは体を鍛えること。極端にいえば、小学校低学年はそれだけやっていればいいかもしれない。ちゃんとした教育カリキュラムに則りつつ、小さな試みを束ねていき、「心・技・体・志」全てを徹底できる学校が理想です。

ーー公教育の制度的なしがらみによって、具体的にどのような障壁がありますか?

公教育とは「公」と書きますが、公教育の意味が違う方向に行っていて、みんなが良いという事だけやりましょうとなっている。がんじがらめになっているので、特別なことをやろうとすると反対する人がいますよね。それで誰も文句を言わない普通の事だけやりましょうということになる。
体を鍛えるにしても、公立の中学や小学では、たとえば10キロマラソンやりますと言ったらもう駄目なんです。「怪我したらどうする?」とか問い詰められてしまう。いまでは運動会でさえ、怪我しないように、傷つかないように…… となり。
みんなが賛成する事だけに限定すると、本当に当たり障りのない事しかできない。でも子供たちを育てるためには、体も心も知識も鍛えることが大事で、我慢させたり努力をさせないと本来の学習にはならない。しかし、この「努力をさせる」あるいは、「忍耐を鍛える」という行為そのものが、いまでは極端な教育だとされてしまう。
「知・徳・体」の調和のとれた教育を目指すと言いながら、ほぼ知(学習)しかやっていないのが実情なんです。徳と体をやると極端な教育であると言われるのに、知だけは極端なことをやっても文句は言われないのが不思議ですよね。しかし実際は、知に加え、徳も体も鍛えなくてはならない。そのためにはやっぱり、当たり障りのないみんなが賛成するものだけではダメで、教育者としてやるべきことをやらないと。一般の人が反対するようなことでも信念をもってやることが必要でしょう。

もちろん、指導要領に沿って教育することは基本なのだけど、それは最低限で、その上にプラスでどんな独自性を加えるのかが肝要でしょう。そのためには、気概を持って、異論を寄せ付けず、思っている教育を貫く覚悟が求められます。

“競争”からも“いじめ”からも学びがある
ただし、大事が起こらないように指導者は全力でケアすべき

ーー資料に「積極的な競争主義」という言葉が書かれていましたが、それを噛み砕くとどういうことなのでしょうか?

ぼくは子供は競争させるべきだと思っている。それが嫌なら志明館に入ってもらっては困るよ。強者がいれば弱者がいるんだけど、強者が弱者に思いやりをもつことは大切やし、負けて悔しかったらまた頑張るというのは当たり前のこと。人間というのは競争のなかで鍛えられていくわけで、それが「切磋琢磨」という言葉の本当の意味。でも、負けたほうが人間的に失格しているかというとそうではない。走るのが早い子もいれば、勉強ができる子もいるし、人それぞれ、弱点もあれば強い点もあるわけで、その個性を伸ばしてあげることが大事なことでしょう。競争させることはつまり、何かに優れた人を尊敬するという、評価の目を養うことにもなるわけや。
ぼくは幼児相撲にずっと関わってきましたが、子どもの頃に相撲をとらせると、意外と女の子のほうが強かったりする(笑)女の子にチームを組ませるとそこが優勝したりね。投げ飛ばされた男の子は負けて悔しくて泣くわけさ。ちゃんと礼儀正しく礼儀作法を教えて相撲をとらせる。手刀も切ってね。女の子でも当然、まわしをちゃんと付けさせる。そういうふうにして、子供たちは鍛えられていくんだ。
このように競争させるというのは大事なこと。目標をもたせ、訓練させ、体も鍛えさせる。でもいまの教育はそういうことにほとんど否定的なんだよね基本的に。学校の先生は子ども側に合わせることばかり考えている。子どもがやりたいこと、望んでいることに合わせていくことが優れた教育者であるとでもいうように。そういうのは、完全に間違っている。

志明館のカリキュラムでは、「競争」する機会が普通の学校よりも多くなるでしょうね。一年を通してほぼ競争になるでしょう(一同 笑)

勉強ができる子だけが偉いということになるが、そうではなくて、体育ができる子、音楽ができる子、いろいろ居るのが自然なわけで。足が速い子に徒競走で負けて、足では負けるから今度は別のことで勝とうと。そこに、さっき言った尊敬の念も生じるようになる。大人の社会はほとんど競争ばかりなので、子供の頃からその状況に慣れていくことが大事でしょう。

一方で、「徳」の競争というのもあり得るでしょうね。「徳」の差は、子ども同士で自ずと分かるもの。あいつは自分よりも大きいな・・とね。そういう面もいまの教育制度ではなかなか育たない。

“ガキ大将”にもリーダーゆえの悩みがあるんです

ーー子供の世界のリーダーシップについてはどうお考えでしょうか?

子供にグループ活動をやらせると必ず学級委員に立候補したがるようなリーダーが出てくる。子供の世界にもリーダーシップがあるわけです。

子供のリーダーは、放課後には遊びを指導する。かつてのような“ガキ大将”が活躍する世界が、学校のなかでまた復活してくる状況を、実は目指しているんです。成績はよくないけど、山に遊びに行ったら、なぜか輝いている子供が昔はいたんですよ(笑)

ーーガキ大将ってもうあまり聞かないですよね。

橋田さんなんて、絶対にガキ大将として君臨しておられた。


子どもの頃にリーダーになるにはね、周りから子供を集めてこなければならんわけ。そこでガキ大将は、いつも楽しく周りの子供たち(部下?)を遊ばせてやれないと、自分はガキ大将じゃ居られなくなる。あっちにも、こっちにもガキ大将が居て、結局は楽しいところに取られてしまうわけ。8人ぐらい仲間がいても、3人ぐらい取られたら、5人しか残らなくなるので、ソフトボールができんくなる。
そこで、人を集めるために一生懸命、次は何の遊びをしようか…… といつも考えなくてはならない。木の上に家を作るとか、ターザンごっこするとか。お菓子を年下の子にあげたり、金がないので皆んなで地金を集めて、それを地金屋に売ったりさ。そんなことをしながら、リーダーとなるための訓練を自然と受けるんや。

ぼくらの頃は地金ではなかったですけどね。ビンの王冠の裏のやつを集めて10円玉に変えていた(笑)

子供の自立、親の子離れのための寄宿教育

ーーそのような、屋外での子供どうしの日々の交流も少なくなってきていますね。

NPOが子供に遊びを教える試みをやってるけど、いまの子供は外で遊んだことがないので何をしたらいいか分からない。小学校の低学年からちゃんと屋外での遊びを教えないと。最初に教えた1、2年生が5、6年生になるころには、周りの子供たちにも伝わり、昔の遊びが復活していくのではないでしょうか。

団体生活のなかで、子供の世界にも縦社会と横社会、つまり上下関係ができてくる。先輩と後輩の人間関係を子供なりに訓練させたい。兄ちゃんが下の面倒を見るのも重要だし、下が上に学び従うことも重要。年下の子も、自分が兄ちゃんになったら下の面倒を見なあかん。それを代々、順繰りにやってく。そういう仕組みを学ばせる上でも意味がある。

子供の自立もあるけど、実は本当にやりたいのは、親の子離れなんです。それが本当にきちんとできれば、子供は自然に自立していくんですよ。世の中のほうが、へんなことばかり気にしてそれを妨げているんです。

ーー親の子離れということに気がつかれたのは、そういう場面を見られてきたからでしょうか?

幼稚園児や小学生を子供にもつ、若いお父さんお母さんの中には自分中心に考える人が増えてきています。以前は、我が家中心という感じだったけど、いまや子供よりも自分自身のほうが大事になっている。親がそういう考えだと、学校側でいくら子供の面倒を見ても、教育にならないですよ。
親の役割とは何かを考えると、親も教育しなければならないのではないか。親が学校に参加できるような場面を作ってあげることも大事。クラス単位で畑で野菜を育てて、日曜日に学校を開放し、親も参加できるようにするとか。「親も子供と一緒に活動してください」と呼びかける。場合によってはおじいさんおばあさんも。大きな家族のようなコミュニティを目指していきたいですね。ご家族が学校の活動に参加してくれれば、地域活性化にもつながります。

次回は発起人対談の3回目。
志明館のカリキュラムの一部と教育方針、指導陣についてなどをお聞きします!

第三回発起人対談
個性の前に型を身につけさせる!志明館の教育カリキュラムとは ▶

発起人対談

  • 01

    【発起人対談1】日本一の小中一貫校を創りたい!「志明館」設立事業に集う有志たち

  • 02

    【発起人対談2】モデルは江戸の学び舎!? 志明館の教育方針とは  

  • 03

    【発起人対談3】個性の前に型を身につけさせる!志明館の教育カリキュラムとは

  • 04

    【発起人対談4】世界平和に寄与する、次世代リーダーを「志明館」から

  • 05

    Coming Soon

  • 06

    Coming Soon

pagetop